日々遍路

寺だけではない。会社や家庭、それを行き来する事が一つの遍路なのだ。

主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。 箴言 1:7 口語訳 https://www.bible.com/ja/bible/1820/PRO.1.7.口語訳

親しくしていただいていた開業医の先生が50代で若くして癌で亡くなられた。その早過ぎる死の告別式の友人挨拶で「散る桜 残る桜も 散る桜」と話されていた事が心に残っていて、後から誰の句だろうとインターネットで調べると江戸時代の良寛和尚の辞世の句であるという事が分かった。
先に逝った人との別れは辛いがやがて私も後から逝くから別れを悲しむ事はないという意味だ。良寛和尚の場合は辞世の句という事なので、私は逝くがあなた方もやがて私のところに来る事になるのだから悲しむ事はないという事になるのであろう。

ただ、その学生時代からの友人の方が毎年一緒に登山をやっていたけれども今年は一緒に登る事が出来ないと涙ぐんで声を詰まらせておられたのが印象的であった。

私の場合は先生とかなりメールをやりとりしていて病気の事でもサプリをお送りしていたが、先生からのメールを読み直すのが辛くて見直せない状態で未だ冷静になる事が出来ないでいる。

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テレビで全ては始まった。玉子に小さな穴を開ける事で玉子の殻が簡単に剥けるようになるらしい。ダイソーで売っているとの事であったが、キャンドゥで購入した。これは本当に小さな穴で小さな事なのかもしれないが、この小さな事の積み重ねが大切なのだ。
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地球が生まれてから地球上の殆どの生命が滅びるという事件が5回くらいあったそうである。地球上の96%の生命が絶滅したとされる2億5000万年前のP-T境界やユカタン半島に落下した隕石が原因の6500万年前のK-T境界が有名である。これは地層や化石から推測される地球の歴史であるが、これに対して考えるところがある。

信仰的な観点からすれば、この世界に神が存在して、この宇宙そして地球を創造したとするならば、どうして地球上の殆どの生命が滅びるような事が起こるだろうか?という疑問である。愛なる神がご自分で創造した世界を理由もなしに滅ぼされる理由はこのように信仰的に考えた場合は存在しないのである。

これに対する答えは実は簡単で滅んだ時に人間が存在していたという仮説をたてるならば合理的に簡単に説明出来る。聖書の中で神がノアの時のように、或いはソドムとゴモラを滅ぼした時のように世界を滅ぼしたという事を考えるのだ。

この議論がもしも正しいとするならば人類の歴史は考え直さねばならないだろう。何億年何十億年も前から人類は存在していたという事なのだから。。。アウストラピテクスや北京原人からというのは科学という名の幻想ではないかという事になるのだ。

証拠は無いわけでは無いのだ。OOPARTS[Out Of Place ARTifactS]。その時代にあったはずのない高度な技術・知識が使用された遺跡や遺物がこの地球上には沢山あって、中には何億年も前の地層から人間が存在しなければ考えられない例えばネジのようなオーパーツが出て来るという事もあるようなのだ。

では、またそのような事がこれからの未来でまた起こるのだろうか?という本題が問題になる。世界の終わりについての議論だ。しかし、その答えは同じく、その信仰的な観点からはNOである。現人類は神様より聖書を与えられ、十字架につけられたとはいえ神の子イエスキリストを地上に迎えたのである。それ故に信仰的な観点からすれば「世界は滅ばない」のだ。それは何時決まったのだろうか?ノアの時だろうか?虹🌈がその契約の証であると聖書にはある。それとも、神の子イエスキリストの誕生の時であろうか?本当に人類は過去の滅びの時を超えたのであろうか?UFOはその亡霊なのか?

クリスチャンなら永遠の未来を唱えるかもしれない。そうであるなら聖書の黙示録で書かれた千年王国は永遠の未来の象徴なのだろうか?これは信じるか信じないかの世界であるが論理的に納得できなければならないのだ。

孤独感に教われ易いのが年末年始という統計がアメリカであったらしい。多くの人たちにとって、休暇は人と一緒に過ごす時間であり、許しや優しさを感じる時だ。だが、ひどく孤独を感じる時だという人もいる。

出会い系アプリを運営する米Coffee Meets Bagel(コーヒー・ミーツ・ベーグル)が先ごろ発表した調査結果によると、この時期には実際に、多くの人が孤独感を持つようだ。

回答者の61%は、「ホリデーシーズンには普段より余計に、誰かとデートすることを考える」と答えた。これは、驚くべき結果ではない。年末にはその一年の出来事を振り返り、残念な結果に終わったことに今後どう対応しようかと考えるものだ。

正月という実感がしないのは、自分のところに歳神が来ないという事なのかもしれないと考えた。そして、歳神が来ないのは、あの世へ旅立たねばならないからなのか?あの世へ旅立たねばならないから孤独なのかもしれない。。。などと考えた。要するに、何か何時もの年と違う気がするのだ。それが杞憂であれぼ良いのだか。。。

稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になる事を表す。

また「頭を垂れる」には「相手を敬う」という意味があり、この言葉自体にも立派な人間ほど相手を敬う事を表す。

つまり「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とは「人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になる」という意味になります。

創設から多くの人気製品を産み出しパナソニックを大企業へと成長させた、経営の神様こと松下幸之助(まつしたこうのすけ)氏も、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を信条としていたそうです。

これを逆説的に捉えて、態度が大きいので小人物だとか、出来ていない人間と言うのは良くなく、あくまでプラス面のみで使うのが良いようです。私も座右の銘としたいと思う言葉ではありますが、そういう意味で自戒とするのが一番良いように思います。

https://itlogs.net/windows-10-32-to-64/

どうも最近、Windows10の32ビットマシンを使っていて、時代遅れ感が出て来て64ビットにしようと考え始めた。これが可能である事はWindows7のサポートが来年2020年の1月14日に終了する事で色々調べている内に現段階でもWindows7を無料でWindows10に出来る事を知り、その記事の中で32ビットマシンから64ビットマシンへ変更出来る事を知ったからである。知るだけでは進歩はない、、、やってみないと。大事なのは動かす事である。。。続きを読む

健康診断を受けた時にオプションでピロリ菌の検査が血液検査で千円払えば出来ると書いてあった。最近、胃の調子が良くないので軽い気持ちピロリ菌の検査をしてみようと考えたのだ。ピロリ菌は胃癌の原因になると知っていた。そして、一ヶ月程経って検査結果が戻って来たが、なんとピロリ菌が存在する事が分かったのだ。医師からは除菌を勧められた。一週間抗生剤を飲み続け一ヶ月後に息を使った検査を行うらしい。
飲み続けて3日後に今まで起こった事が無かったパニック発作が起こった。途中で止めたら、薬を飲んで来た意味が無くなると言われていたので、薬を止める事なく頑張って一週間薬を飲み続けた。そして、何とか最後まで飲み続けたのだ。

異変は一週間かけて薬を飲み終わってから三日後に現れた。ズボンを下ろした時にモモのあたりに赤い発疹が出ていた。それが、背中と手足に広がり、遂には世にも恐ろしい姿になってしまったのだ。それを写真に撮ろうとか、そんな気持ちは一切出てこなかった。

次の日に背中と手足に発疹ご出ている時に皮膚科に行ったら、薬を飲み終わってから出たので薬のせいではなく、これはピロリ菌の死菌によるアレルギー反応だと言われた。さらに発疹は全身に広がり赤い色も強くなって来た。本当に自分でも正視できない世にも恐ろしい姿になってしまったのだ。ついには救急病院に行こうと電話してみるも皮膚科の先生がいないから受け入れる事が出来ないと冷たくあしらわれる。皮膚科の問題じゃないでしょ!と叫びたい気持ちを抑えて次の手を考えた。

これで病院へ行ってもせいぜいステロイド点滴をされるだけだと判断して、瀉血をしてくれる東京渋谷の初台にある蔡内科クリニックに行く事を決断したのだ。

それから一週間から二週間かかったであろうか?皮膚は正常に戻った。勿論、皮膚科で処方されたステロイド軟膏などは一切使っていない。薬のせいではなくピロリ菌の死菌のせいとした医師の言ったことを思い出し、今の医療の限界のようなものを感じたのだ。それから私のカルテにはペニシリン禁忌、マクロライド禁忌と大きく書かれるようになってしまった。

でも思い返してみると最初は本当に薬疹とは考えなかったのだ。今日食べたものがおかしかったのではないか?とか考えていた。でも、どうして薬疹と考えるようになったかと言うと検索によってピロリ菌の除菌をした人の多くのブログを見つけたからである。そうなのだ。同じように自分も声を上げなければならないのだと思ったので、私のブログにも書かねばならないと思ったのだ。間違いなく、これは薬害だったのだ。
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「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり」とは道(真理)が如何に重大かを表現した言葉である。「人生不可解なり」の言葉を残して華厳の滝に身を投じた一高(現在の東大)の学生がいたという話を聞いた事があった。
検索してみると、、、旧制一高生の藤村操が日光の華厳の滝に身を投じたのは、1903(明治36)年5月22日。〈万有の真相は唯(ただ)一言にして悉(つく)す。曰(いわ)く「不可解」。我この恨みを懐(いだ)いて煩悶終(はんもんつい)に死を決するに至る〉滝のそばの樹を削り「巌頭之感」として記した、、、
とある。社会的にも大変恵まれ優れた能力を持った青年がそのように自殺した事は当時の社会に大変な衝撃を与えたという事である。天理教ではこのように理屈で悩む事を理上として、人間の大きな苦悩の一つとしている。この天理教の話には、これが「道の花」であるという大切な続きがあるのだが、「人生如何に生きるべきか」について誰しも悩む時があるという事である。
こうした問題を考える時には哲学的問題を通過しなければならず、神は存在するのか?神とはどの様な存在なのか?神が存在するとすればどうしてこの世界に罪が存在して悪が存在するのか?そして、どうすれば救われるのか?などを考えなければならない。それに応えるかのように聖書で「私は道であり、真理であり、生命である」と言ったのはイエス・キリストであった。
悩んでいた彼はイエス・キリストにも出会う事が出来たし、また恐るべき悪魔にも出会う事が出来た。それはまさに「道の花」つまり人生の花の時であったという事が出来るのだ。

キリスト教では人間が罪を犯した事(原罪)で神から離れてしまったと教えている。罪によって人間は神が分からなくなってしまったというのだ。そして人間はその事によって無知に陥ってしまったというのだ。人が神であるならば全てを知っているので相手の気持ちも手に取るように分かるはずであった。だから人を傷つけるような事は本来出来ないはずだったのだ。しかし、神から離れてしまった=無知になったので他の人の事が分からなくなってしまったのである。
それによって、人が他の人を見ると「自分勝手だ」「自己中心だ」と思うようになっているのである。
そして、人を殺しても殺人を犯しても何とも思わないような人間が生まれるようになったのだ。
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東出昌大の不倫が問題になっている。それは彼だけの問題ではない。我々は誰しも幸福になりたいのだ。東出も同じだったはずである。人は誰しも不幸を退け幸福を求めて生きている。悪を退けて善を求めて生きている。しかしながら、我々は欲望を満たす事で幸福を感じる。そうして不義なる欲望を満たせば不幸になるという事もある程度自覚して生きている。しかし、どうしてか誤った道に行ってしまうのだ?それは環境の問題もあるかもしれない。どうしても善よりは悪の方に傾いてしまう生活環境の問題もあるのかもしれない。

その心理はある程度想像は出来る。しかし、我々は残念ながら明確な善悪基準を持っていない。一体何が善であり?悪であるのか?明確でないのだ。人は無知なのだ。東出もまたある意味無知だつたのではないか?それをソクラテスは「 無知の知」と言った。それ故に人間はなかなか幸福になれないのである。


無知の克服。これこそが人類の悲願であり我々がなすべき事なのだ。それ故に科学があり、宗教があるのだ。特にこの日本に於いては宗教的な無知が問題になる。道徳性の問題である。東出に於いてもそうであったのではないか。でもあまりに無知であると自分が誤った事をしたという認識すらないのかもしれない。そうすると同じ過ちを何度も繰り返すという事になるのだ。真相はどうなのであろうか?

もう半世紀も前の事になる。今はもう存在していない航路であるが、神戸から舟に乗り明朝に四国の徳島県と高知県の境にある甲浦というところの岸壁に到着する。海と山が岸壁に迫り不気味な静けさの存在感は時を超えて未だに自らに迫って来るのだ。それはまさに畏怖すべき何かなのだ。明らかに時間と空間を超えた霊的な何かだった。当時はただ畏怖だけだった。それらは結局、自らの父を母を兄弟姉妹を飲み込んで行った。あの闇の向こうに父が母が存在しているようなきがするのだ。兄弟姉妹もきっといるのだ。逝ってしまった人々の居る世界、、、

人はあの世を見る事は出来ない。死んだ人が行った世界を知る事は出来ないと考えている。でも時々この世界に顔を出している時があって、我々はそれに出会っているのだ。


いつから誕生日というものが祝われるようになったのか?イエス様の誕生日からではないか?と考えたが、仏教でも「花祭り」と言って4月8日がお釈迦様の誕生日として祝われる。1月1日はアダムの誕生日であると何処かで聞いた事がある。人は生まれる日があって、そして死ぬ日がある。それについて考える事は何故かとても大切な事ではないかと考えた。

誕生日とは貴方も誰も喜ばないとしても周りの人が、そして誰よりも神様が貴方の誕生を喜びそして祝福した日という事をまず考えてみなければならないのかもしれない。

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もともと「誕生日なんて祝って欲しくない」と考えている人も結構いるのではないか?実は私自身そうであった。そこで、よくよく誕生日の意味を考えてみなければならないのだ。本人よりも親が喜ぶ日が誕生日なのだ。だいたい生まれた日に本人は何も分かっていない。周りの人がそして誰よりも神様が喜んだ日が誕生日なのだ。そうであるならば素直に感謝の気持ちをもって自分の誕生日を祝う気持ちにならなければならないのだ。その程度によって誕生日を祝う事が出来るようになるのではないか。自分が生かされている事や親に対する感謝の気持ちが無くなる程に誕生日はどうでも良い存在になって行くのだ。

そして、今日も誰かの誕生日!Happy Birthday!と言ってみよう。そうすれば、貴方にも福が来るのかもしれない。

これは何事についても言える事だけれど興味の無い事は興味が無いとはっきりすべきである。我々の前に出現する情報に対して、我々は常に選択を迫られているという事である。「選択をしない」という選択も時にはあるかもしれないが、我々は選択して行かねばならない。興味が無いものを削っていく事で本当に興味があるものに出会うのだ。

ユーチューブを開いて感じるのは、あまりに興味ないものが多過ぎるという事である。次から次へと様々な動画情報を我々に提供してくれるのは良いのであるが、殆どは興味ない事なのだ。それを排除する事で我々へ行きたい世界に行き着けるのである。

ユーチューブには色々な機能が存在していて圧倒されるのであるが、その中に「興味ない」ボタンが存在している。これはその中でも非常に重要な機能であると私は考えたのだ。そして、興味の無い動画とチャネルをパソコンの画面からどんどん消していったのだ。そうしたら、、、

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気がついたらユーミン メドレーをユーチューブで聞いていた。ずっと聞いてなかった、ずっと忘れてしまっていた、ずっと聞いていたい世界がそこにあった。

ねがはくは
花のもとにて
春死なむ
その如月の
望月のころ

西行法師

この歌を知ったのは、村上もとかの漫画「龍-RON-」であり、何故かそのマンガを読んだ時の印象が忘れられないでいる。花とはもちろん桜である。漫画の中では主人公が師と仰ぐ剣道の先生(戦前に京都にあったという武道専門学校教授 内藤高治)が亡くなる時の様子がこの歌と共に描かれていたように記憶している。剣道への情熱と守破離についての思想さらに師との別れが桜と共に表現されて歌が非常に印象的なものになった。如月の望月の頃とは旧暦の2月15日満月で太陽暦では3月末頃を意味するらしい。西行が愛した桜の満開の時期であり、釈迦入滅の時でもある。出家の身として西行が望んだ通り、自身も旧暦の2月16日建久元年河内の弘川寺で没している。

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桜には何故か人生において忘れられない思い出がつきまとうものらしい。



今年はどんな出会いが別れがあるのだろうか?

だからであろうか?桜には様々な幻想がつきまとうようなのだ。桜の木の下に死体が埋まっているという梶井基次郎や坂口安吾の小説もあるが、桜の花について不思議に思うのは葉が出てそれから花が咲くのではなく、いきなり花が咲く事である。これはきっと歴史の遥か以前に人類が遺伝子操作した結果ではないかと考えた事があった。その文明は世界史にも記載されない現代文明の遥か超古代に存在して滅んだ文明なのだ。

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我々の日々の生活でリラックスしたい時に何をやるかを考えた時に思いつくのは音楽というのは多いと思われるが、香りを楽しむというのは音楽ほどは普及していないのではないかと思うのだ。

香りを楽しむというのとは少し違うのかもしれないけれど、タバコを吸う人というのはタバコの香りを楽しんでいると言えるのではないか?タバコを吸う人は結構いるように思うが、女性が使う香水、男性が使うオーデコロンなどで香りを楽しんでいる人はそれ程多くはないような気がしている。

とは言うものの、最近アロマショップなどでアロマディフューザーなどが良くお店に置かれてある事を考えると予想以上に流行っているものかもしれない。

花を楽しむという場合に見た目だけではなく、ヒヤシンスのように香り。楽しむ場合もあるようだ。

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お彼岸とは秋と春にあって昼の長さと夜の長さが同じになる時の分岐点である事からであろうか?或いは浄土宗で言われるように太陽が真東から真西に沈む時である為に真西にあるとされる極楽浄土に最も近くなる日であるからだろうか?御墓参りをして先祖供養を行い功徳を積む時とされている。それは朝一番を大切にしたり、月初め、正月を大切にするのと同じ様な考え方に基づいていると考えられるのかもしれない。霊的な世界と時間は密接な関係にあるのかもしれない。
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三途の川とは現世とあの世(彼岸)を分ける境目にあるとされる川の事らしい。三途を表す餓鬼道・畜生道・地獄道に陥った者が流される川の事で、死んだ時に「三途の川を渡れない」とはあの世に行けない、つまりは成仏出来ない者の道を表現した言葉らしい。

でも、三途の川の川岸に住んでいる鬼の夫婦に六文銭を渡せば悪人も生前の罪を悔い改めたものとみなされ、善人と同じ船で彼岸に渡る事が出来るらしい。

この餓鬼道・畜生道・地獄道に修羅道・人間道・天道を加える事で六道輪廻と言い人の魂が繰り返さねばならない因縁を表現するらしい。そして、この六道輪廻という因縁から自由になる事を解脱というようだ。或いは「悟りをひらく」と言うらしい。

極楽を知る事は大事であるが、このように地獄を知る事も大事なのだ。ある霊能者によると殆どの夫婦はあの世に行って、まず一緒にいる事は無いらしい。それだけではなく、あの世に行った95パーセントの人が何らかの地獄にいるという事らしい。あの世の地獄にいる人にとって、血縁とはあの世からの命綱であり、供養される事は救命ボートのようなものらしい。そこに人生の多くの問題が発生する原因があるようなのだが、多くの場合、ご先祖さまも我々も結局はなかなか救われないままでいるものなのかもしれない。毎日毎日忙しく追われるように働いている我々であるが、実は救いを求めて彷徨い続けているのが我々の本質なのかもしれないと考える事はないだろうか?

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単なる商品の売買以上の何かがそこには存在している。確かに商品を購入するだけなのだが既存の流通とは全く異なる購入方法であるという点である。何が一体違うのか?単に商品を購入するだけではなく、商品以上の何かも一緒に購入しているのだ。それは人間関係だろうかと考える。実はそれ以上の何かであるというのが結論なのだ。

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ネットワークビジネスで扱われている商品はユーザーと一体不可分である。その商品を一緒に使っているという一体感が半端ないのである。従って、その商品に対する製品愛も当然の如く深くなるのである。

要はその商品を使うのか?使わないのか?そこで運命は別れるのである。人間関係も変わるという事なのだ。

使わないとなれば、人間関係も残念ながら遠くなるのだ。使ってみるかどうかは、どれ程その商品を勧める人のいう事を受け入れるかどうかだ。勧め方によっては、受け入れない人は関係のない人と判断されてしまうかもしれない。そういう意味では勧めようとする人の人間関係の踏み絵になるのかもしれない。とにかく人間関係に大きな影響を与える事は間違いない。場合によっては人間関係が壊される場合もあるかもしれない。

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これは結局は価値観の問題なのだ。価値観を強要しようとすると、そこに問題は当然発生するのは必然である。どれだけ有り難いものであったとしても単なる目に見える商品で人間としての価値が決められてしうとすれば尚更なのかもしれない。

共感し共有出来る価値があれば良いのである。或いは普遍的な価値があるとすれば問題は発生しないと考える。そこで共感し共有出来る人間関係とは何かという事である。それは決して金の亡者を中心としたカルト集団ではないのである。そんな仲間には誰もなりたいとは思わないのだ。

それを理解するにはネットワークビジネスと対峙する存在を考える事が必要になっているかもしれない。それが共産主義の場合は巨大資本であった。実は問題とするところは同じなのだ。マスコミやテレビそしてインターネットを嫌いコマーシャルを嫌い口コミで行こうとするネットワークビジネスの原点はこの辺りと関連していると考える。

その事はネットワークビジネスのアメリカでの発祥の歴史そして時期から考えても妥当性があるのではないかと考えた。共産主義が生まれた時代に実はネットワークビジネスも生まれているのだ。つまり、時代背景に共通のものが存在している。でもこれは、まだ誰も説明出来ていない内容かもしれない。


加藤一二三九段はプロの一流の将棋指しでありながら、クリスチャンなのだ。その事がわたしには魅力的に思える。その為だろうか?言葉には独特の説得力がある。この本には「最善手は明確なビジョンとして頭の中に浮かぶ」という事が書いてある。成る程と自分も納得出来るという事は自分にも同様の経験があるからなのかもしれない。それを読んで本当の人生の最善手は明確なビジョンとして常に我々の前に現れているものだという事を改めて考えさせられた。それは人生の最善手の中にある人にとっては当然の事かもしれない。そうなのだ。迷っていてはいけないのかもしれない。
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ユーチューバーになりたいとか思って、そのやりたい事が出来るツールを検索して、見つけた無料プログラムをダウンロードしてインストールするという対応はパソコンにゴミをどんどん蓄積する事で実に発展性の無い事をしている事を先ずは反省しなければならないと考える。開発環境に対する統一的なビジョンを持てなければ未来に対するビジョンも開けないのではないかと考えた。

どんな事でも王道を行こうとするのが大切なのだ。パソコンのシステムで軸になっているのはWindows のOffice であるならば、その中で解決するというのが筋というものだろう。パソコンはWindowsでなければならないとか、Office を使わねばならないとか、、そういう話ではない。MacでもLinuxでも良いのであるが例えとしての話である。

どうもOffice というと仕事で使うというイメージが強すぎるが個人の趣味や仕事でも活用して行くべき主軸的存在である事を知るべきだと考える。そうなのだ画像や動画を作成する時にも大いに活用すべき存在なのだ。一つ、Officeの注目すべきなのは基本的な素材を持っているという点である。文字だけが注目されがちであるが、基本的な図形も色々と持っているのだ。

動画や画像の素材を提供するのは、そのポータブルな点からスマホであるが、編集はパソコンを使ってOffice というところであろうか。どのようにOfficeを使うのか?は検索すれば山のように情報は出て来るのだ。宝の持ちぐされとはまさにこの事ではないか?

Excel は誰でも表計算の為にあると考えているが、その本業である表計算からグラフであるが、それ以外の画像を編集するのにも強力なツールとなっている。様々な文字装飾ツールは勿論、直ぐに使える基本的な図形が用意されていたり、例えば画像を取り込めるのは誰でも知ってるがWeb等でパソコン上に表示されている内容から自由に切り取ってExcel上に貼り付ける機能が実装されていたりもする。

Power Pointではプレゼンする音声を入力出来たり、動画を取り込めたり出来るばかりではなく、その内容をmp4に変換してYouTube にアップ出来たりもして動画作成ツールにもなるのだ。

画像や動画などのマルチメディアもOfficeなどの部品であり、YouTube もホームページを作成するような感覚で取り扱われる一般的な公開メディアとしてユーチューバーにならずとも積極的に活用していくべき時代なのであろう。それがOfficeでも充分に出来て活用して行けるという事を見直すべきなのだ。

そしてマルチメディアを統合して表現するHTML ファイルはWord で編集出来るのは良く知られている事で使われている方も多いのではないだろうか。




素材として結構重要だと思っているのがパソコンやスマホの中の世界だ。勿論、パソコンやスマホの外の世界こそがある意味全てなのであるが、パソコンの操作内容を録画したり、スマホの内容を録画したいと思った事はないだろうか?前者はOffice365のPowerPointを使って実現出来る機能であり、スマホの場合はiPhoneならiOS11以降なら標準機能として搭載されているようなのだ。

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所得には労働して得られるものと最近よく耳にする不労所得というものがある。この不労所得という存在を忌み嫌う人が実に多いのであるが、この不労所得の本質を大胆にも解説してみる。

聖書の創世記に人間始祖アダムとエバが取って食べてはならないという木の実を食べて堕落したから人間は苦労して働く事になったという記述がある。失楽園の物語である。

そうなのだ。人間は本来堕落しなければ苦労して働く必要も無かったという事は少し真面目に考えてみなければならない事なのかもしれない。

「更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。」
‭‭創世記‬ ‭3:17-19‬ ‭口語訳‬‬
http://bible.com/1820/gen.3.17-19.口語訳

現代は終末という事が良く言われる。終末とは何か?歴史の終わりであり、新しい歴史の始まりでもある。つまり現代はまさに人間始祖アダムとエバの時代と同時性の時代だったのだ。

だから我々が歴史の方向を間違わなけれは未来には働かなくても生きていける夢のような世界が待ち受けているのかもしれない。それは神がコンピュータに降臨する時代なのかもしれない。ひとが神と共にあって世界を支配する時代それはまさに新約聖書の黙示録で予言された世界である。でもそれが、どのように実現するのか?誰が知っているだろうか?

しかし、歴史の方向性を誤れば、また額に汗して働かねばならない時代に逆戻りするという事なのだ。こちらの方が多くの人には現実的と思えるかもしれない。

でも働かなくていい世界も現代において少し顔を出していると考える事も自然な発想として考えられない事もないと言えないだろうか?不労所得で生活するという事の本質に実は新しい歴史の力が働いているのではないかという考察なのだ。

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